20027月号
   

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津ライオンズらしさを実践

“天運” そして“やる気”
“天運”を感じています。伝統ある津ライオンズクラブの会長を引き受けることになった私の人生の“天運”、そしてわがライオンズクラブの会員の皆さんとの今日ある出会い、さらに未曾有の経済状況の中、会員の高齢化、退会者の増加・・・、そんなクラブ内外の状況との廻り合わせ。これらすべてが私の“天運”と受け止めています。
しかし、私の思いは決して消極的なものではありません。心は“やる気”でいっぱいです。四周の状況が悪いからこそ奮い立ちます。会員の皆さんも同じ心境であろうかと思います。悪い条件に立ち向かう精神で、ものごとに挑戦し、必ず明かりの見える行動にしたいと思います。

 生きることは心の豊かさを貯えること
 「ものの豊かさと心の豊かさのバランスを欠き、未来の目標を見出し得ないまま21世紀を迎え、いよいよ混沌とした模索が続いている」とは、地区ガバナーの時代認識ですが、私にも同様の思いがあります。友愛と奉仕の旗を掲げるわがライオンズクラブこそ、心の豊かさに貢献したいものです。
 クラブはこれまで、42年の伝統のなかで、積み重ねたアクティビティにおいても、練り上げてきた例会のもち方や会員相互の親睦のあり方においても、津ライオンズ「らしさ」を培ってきました。この津ライオンズ「らしさ」の原点から構想を立ち上げ、夢のある心豊かな未来像を描ける活動に取り組む決意です。財務の健全化、会員の拡大など課題は山積していますが、津クラブ43年目の船出にあたって、会員の皆さんの協力と格段のご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。

 
 以上は、河村会長の談話をPR会報委員会の久米が要約させていただきました。
 なお、小寺克之幹事は、「とりあえず、会長と会員の間を取り持っていくのが私の役割。欠ける部分は宮木さんに頼む」とのことで、頼まれることになった宮木康光副幹事は、「一生懸命やらしてもらうしかない」と笑顔で答えてくれました。
 きびきびとした河村会長の言葉のなかに優しい人柄が覗き、江藤さんも交えて笑いの絶えない頼もしいリーダーの面々です。

   


 7月9日朝、日本では26年ぶりに開催された第85回ライオンズクラブ国際大会に出席するために、総勢35名で北門前を出発。バスは11時過ぎに、インターナショナル・パレードの行われるUSJに到着。まずは証拠の記念撮影から始まり、入場チケットをもらい場内へ。後は4時半まで自由行動。ということで、私の場合、パレードもそこそこにして後日家内と2人で来たときのために、少しでも多くのアトラクションを知っておこうと単独行動で左回りにスタートし、ジョーズで30分、ジュラシックパークでは何と1時間も並んで目的を達し、合計170分ほどの待ち時間を堪え忍んで7ケ所のアトラクションを攻略してきました。その間、ハンバーガーを食べ、コーラを飲み、ジェラードをなめただけで時計は4時10分。早よ戻らな置いてかれると思い一生懸命に11番の駐車場をめざし、かろうじてセーフ。バスはチサンホテルへと出発。その後例会場の「すたんど割烹日本」で本年度第1回目の例会が開催されました。
 翌日は目的の国際大会に出席するため大阪ドームへ。
 大会は8日(月)〜12日(金)まで続き色々な事業を行いますが、我々はその中のメインである大会初日総会のほんの1時間半だけ出席し、その雰囲気を感じてきました。さすがに国際大会です。外人さんが多くいました(すみません)。そのせいか、会場が球場のためか、飲み物、食べ物の場内への持ち込みも自由でした。日本の大会等ではこうはいかないと思います。式典はどこも同じで来賓の挨拶が多く、少しうんざり。少し違ったのは、こちらでは司会者が進行していきますが、やたらムーア会長がしゃべりまくり1人で進めていました。
 挨拶が終わった頃には帰り支度になり、えらいこっちゃ何も書くことがないと思い、皆が席を立つのをじっと我慢して、パレード・コンテストの入賞者発表を控えてきましたのでここで報告して終わりにします。
 まずパレード部門ですが、1位はフィリピンで2位は日本336複合地区の「よさこいまつり」でした。その他にもユニフォーム部門、バンド部門、他にも○○部門などいろんな部門で発表していましたが、学生時代にドイツ語を選択していましたので、どうも英語は聞き取りにくく、これだけしか報告できません。ゴメン。
 最後に持っていったバッジを韓国の女性軍団にチェンジと言ったら、手にとってまじまじと裏まで見てから、ノオ!いらないと言われました。


新旧会長「盃交換の図」


  

  

L橋爪俊裕

昭和35年3月23日生まれ/とよさと動物病院院長/津市高野尾町/二男二女/奥様も獣医さん/趣味はダイビング、釣り、ボート/特技は競馬予想/日本獣医畜産大学修士課程卒業


■新・連載■

    

津市は安濃津の昔から、多くの偉人・賢人を輩出してきました。この欄では、実在、伝説織り交ぜて「安濃津12賢人めぐり」をさせていただきます。 この“賢人めぐり”が、津のまちづくりや地区ガバナー方針「未来に希望を、若人に夢を」の一助になればと願っています。

   

知る人ぞ知る生誕の碑
片田井戸町に瑞林寺がある。今は住職がいない。その瑞林寺の南隅、石段を登りつめると竹林を背に石碑がある。そこには「夢窓国師生誕地」の刻みがある。石碑を建立したのは地元の有志で、碑の文字は京都の大本山相国寺の山崎大耕第129代住持である。
夢窓疎石(1275〜1351)は、室町時代の臨済宗の僧で、その死後も含めると7代の天皇から「師」と称号されたことから、「夢窓国師」「七朝帝師」とも呼ばれる。4歳で津(生誕地を鈴鹿市三宅とする説もある)をはなれて甲斐(山梨県)に移り、77歳で京都嵐山の渡月橋のたもと、臨川寺で没するまで、全国各地に移り住んでいる。その間、雲出川の中流・久居市羽野に善応寺を開山したり、伊勢神宮を訪れたりもした。善応寺山の今は、寺院もなく荒れ果ててしまっているが、江戸末期までは藤堂藩の文人たちの遊山の場でもあり、そこに安置されていたであろう仏像は、今も七栗公民館の押入れの中に眠っている。


 全国に残る名勝庭園
夢窓疎石の名は、津よりも京都で有名である。京都の名刹の多くに夢窓疎石の足跡がある。修学旅行生が必ず訪れる天龍寺、苔寺で有名な西芳寺、足利尊氏の墓がある等持院などを開山、後に藤堂高虎が南大門を寄進した南禅寺の住職もつとめた。金閣寺、銀閣寺、相国寺などは、死後、弟子たちにより“開山は夢窓国師”と伝えられている。また、多治見市の永保寺、鎌倉市の瑞泉寺、武田信玄ゆかりの寺としても知られる山梨県塩山市の恵林寺なども、疎石の開山である。争いを続けた南朝、北朝の両雄、後醍醐天皇と足利尊氏の双方に親交があり、「怨親平等」の考えのもとに戦乱の犠牲者を弔い、安寧を説いたようである。
これら僧としての業績のなかで注目したいのは、自然・庭園とのかかわりである。疎石ゆかりの名刹には、今も国が指定する名勝庭園が残っている。夢窓疎石にとって自然・庭園は、単なる風景ではなく、人の「道」そのものであった。
足利尊氏の弟、直義と疎石の対話を記録した「夢中問答」がある。その一節に、名庭園とともに歩んだ疎石の自然観を知ることができる。それは、およそ次のような主旨である。

「山水に得失なし、得失は人の心にあり」 
昔から今にいたるまで、築山を造ったり石を置いて木を植えたり、また水を流したりして庭園を好む人が多くいます。しかし考え方はそれぞれ違っています。家の飾りのために造って、見事な住まいだと言われたい人がいます。珍しいものや高価なものを求めて庭に置く人もいます。これらは、利害得失、毀誉褒貶の好きな人です。
(中国の)白楽天は、竹は中が空なので、水は本性が浄らかなので、心の空虚さや浄らかさの師と考え、小池を掘り、辺りに竹を植えました。利害得失、毀誉褒貶に惑わされない人です。
世俗のことを気にかけず、自然や庭園で心を養おうとする人がいます。ところがそれが昂じて、自然や庭園に執着してしまう人がいます。「道」を求める心がないからです。
自然や庭園と向かい合うことで、「道」を修める助けとする人がいます。しかし、自然・庭園を愛することと、人の「道」とを区別しているので、真に「道」を修めることができません。
自然を構成する山河大地、草木瓦石の存在は、自己の本性と一体不離の存在であると信じる人がいます。自然・庭園を愛する心をそのまま「道」を求める心と自覚し、泉石草木が四季折々に移り変わるようすを精神修養とするのです。これが模範です。(L久米宏毅・記)