2002年8月号 |
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8月9日は、納涼例会でした。前半は、津都ホテル伊勢の間での通常の形式。開会ゴングから始まり、「国歌」や「ライオンズクラブ」の歌を合唱。いつもと異なり、壁に掲揚された小さな日の丸と紫色のライオンズ旗が、可愛らしくもあり、新鮮でもありました。 |
爽快な風に吹かれて伊勢湾を一望
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伊勢の間の横の階段を昇るとセンターパレスビルの中屋上。眼前に伊勢湾が広がるビアガーデンです。知多半島や神島の眺望も見事です。伊藤雅朗前会長の「ウイサーブ」の音頭で乾杯。肉や野菜が山盛り用意されたバーベキューパーティの始まり。“生中”などアルコールのお代わりは、自腹を切ってということで・・・。 |
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■連載■ |
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千百年続く伝説
遭うことを 阿漕が島に 引く鯛の たびかさならば 人も知りなむ 阿漕の話が現存の書物に現れるのは、9世紀半ばに編まれた「古今六帖」が最初である。この歌は、好き合う男女が人目を忍んで逢瀬を重ねていたが、密会が度重なったので、伊勢の阿漕が浦で鯛を繰り返し密漁していたのがばれたように、世間に知られてしまった、ということを詠んでいる。 平安中期は、荘園制が進んだ時代である。有力貴族や寺社は、こぞって領地拡大を図っていた。神宮もその例外ではなかった。漁業の権益を獲得せんがための神宮の進攻は、伊勢湾岸に居住していた土民との間で絶えず軋轢を生じたと思われる。そんな中で神宮は、おそらく強引に、阿漕が浦を神宮の御贄所と定め、土民の漁を禁じたのであろう。当然、神宮の支配に反発する者もいて、密漁が繰り返されたと推測できる。こうした伊勢の阿漕が浦の出来事は、恋愛歌にまで引用されるほど、都の噂にもなっていたのであろう。 諸説ある「阿漕・平治」像 「広辞苑」によると「あこぎ」の語義として、@たびかさなること。A際限なくむさぼること、あつかましいさま、ひどく扱うさま。B能の一。とされている。@の語義は、あまり知られていないが、前述の歌の趣意からも推量される。Aの語義は広く世間に知られ、「あこぎ」と言えば「悪いこと」の代名詞のように使われている。かつて、ラジオドラマや東映映画で一斉を風靡した新諸国物語「紅孔雀」では、悪の頭領は「阿漕太夫」と名付けられていた。 「津市史」によると、古書にも様々な阿漕像、平治像が描かれている。「勢陽雑記」には、「阿漕」という男が罪科に問われ波間に沈められたとある。他にも「阿古木」と言う男・・・、平氏の子孫である経次の怨霊・・・、漁師「平次」が・・・、阿漕に住んでいた「平治」と言う男・・・と様々に脚色されている。最近では、“ふるさと新聞”の西田久光社長が、「我聞阿漕」で、独自の阿漕平次像を描き出している。 室町時代に日本の能を大成した世阿弥元清は、阿漕が浦伝説に取材して、能「阿漕」を作っている。世阿弥は、この能を舞う時を秋と定めた。毎年、中秋の満月の夜に、ボランティアと市民の協賛で、阿漕が浦で催される「伊勢の国、阿漕が浦。迎月の宴」の舞台では、無形文化財総合指定の長田能楽師と「長袖会」によって、この世阿弥の「阿漕」が幽玄に舞われている。今秋は、9月21日(土曜日)である。 孝子阿漕平治の説 津市柳山には、天明三年(一七八二年)に建立された阿漕塚がある。その隣には、「月の夜の 何を阿古木に 啼く千鳥 芭蕉翁」と記した句碑がある。こちらは文化十三年(一八一六年)の建立である。この阿漕塚と地先の阿漕が浦が、阿漕平治伝説発祥の地ということになる。この塚に記された「孝子阿漕平治の説」が、現代の通説と言えるであろう。 「昔、阿漕浦が神宮御用の禁漁区で魚をとることができない場所でありました頃、平治と云う親孝行な漁夫が阿漕浦の矢柄と云う魚が母の病気の妙薬と聞いて禁制を犯して夜な夜な矢柄をとり母に食べさせて病気の治っていくのを楽しみにしておりましたが、或る風の強い日に平治と印のある笠を浜に置き忘れた為に捕らえられ、法により簀巻にされて阿漕浦の沖深く沈められた・・・」 世渡りの あはれは今も 引く網に 見るやあこぎの 浦の舟人 谷川士清 (L久米宏毅・記) |
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