200210月号


   

 10月7日(月)絶好の献血日和?の下、3クラブ合同献血が津サティ時計台広場にて開催されました。朝9時から3時半までの間に194人(3クラブ計)が受付を行い、うち163人の方々に献血をしていただきました。内訳は400cc献血が143人、200cc
が20人でした。我がクラブの受付人数は100人と過半数を占め、面目を施しました。
また、血液センターでの成分献血は、受付12人(3クラブ計)、実施8人の状況でした。
献血をしていただいた皆さん、本当にありがとうございました。また、四献・保健奉仕委員会皆さんご苦労様でした。
なお、最近は輸血を受ける側の事を考え(輸血必要量を少人数でまかなう方が輸血時の問題発生が少ない)400cc献血が一般的となっており、当日400ccと聞いて、とまどわれた方や、体調から200cc献血で止めた方、歯科治療中等で献血ができなかった方等が有り、次回はこの当たりをもっとPRしつつ、更に参加者を増やしていきたいと思います。次回もご協力宜しくお願いします。

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 津LCはじめ商工会議所や自治会など津市の諸団体が参加する「クリーン津」活動の一環として、津LCでは、早朝からお城公園の除草を行ないました。日頃からデスクワークが多く、ゴルフ以外には体を動かすことの少ないメンバーにとっては、よい運動になりました。今年はいつものあじさいロードでなく、広場の方で作業をしました。自然の息吹にふれながら汗を流して、広場がすっかりきれいになったころには、心身までもがきれいになったように感じられました。

 

西田氏が講演 高虎公を新世紀の津市民に伝えたい

 津LCでは、来年3月に津リージョンプラザにおいて、「藤堂高虎一代記」の市民向け上演を予定しています。舞台は「劇団津演」の皆さんにお願いするのですが、9月27日の例会に、原作者の西田久光氏をお招きし、藤堂高虎について講演いただきました。
 西田氏は、昨年出版した「藤堂高虎一代記」のなかで、津の市民が、津市の原型を築いた高虎公に関心が薄いのに“義憤”を感じたこと、またフエニックス通りで催される「高虎楽座」で、“津にゆかりの時代劇を”と、懇請されたのが動機になっていると述べています。楽座芝居は、1段30分のモノを10段、10年間継続公演されて完結しました。
 藤堂高虎の人間像と西田氏自身が言う「田舎風大河芝居」の中身については、改めて3月の上演を楽しみにしてください。

クラブ例会はリテンションへの第一歩

100%例会 惜しくも87.2%」


 クラブ例会は、リテンション(会員維持)への第一歩。
 本年度国際会長、Lケイ・K・フクシマのメッセージを受けて、10月11日第1019回の例会は全員出席に挑戦した。当日はいつもよりテーブル数も2卓多い7卓を用意。(私がテーマをしていたときはいつも11卓を用意していましたが)そのテーブルも終身会員さん7名が全員出席していただいたということもあり、すべて満席になり、久しぶりに会場に熱気が溢れました。
 しかし、結果は献血に行かれた4名の方を含め、正会員55名のうち48名の出席で、87・2パーセントに終わりました。この後のメーキャップを含め、何とか達成できることを希望します。(L岸江・記)


■連載■

多感な時期を 津市で育つ

 明治25年(1892年)高知県安芸市に生まれた弘田龍太郎は、父が三重県立第一中学校(現在の津高校・写真の碑がある)の校長に転任するのに伴い津市に移住、少年から青年への多感な8年間を津市で過ごした。津市立養正小学校に転入、父が校長を勤める第一中学校に入学。在学中から音楽的才能は豊かで、卒業後は東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学した。音楽学校進学にあたっては、父は厳しく反対したが、一弦琴の名手で龍太郎の音楽的才能を見抜いていた母の助言や、一中の音楽教師の推薦もあって実現したとの話も残っている。
東京音楽学校器楽部ピアノ科在学中、すでに「鯉のぼり」を作曲している。卒業後はそのまま東京音楽学校の講師となり、日本の童話をお伽話から文芸へと高めた鈴木三重吉、北原白秋らの児童文学運動誌「赤い鳥」と深く関わりながら5年ほどの間に数々の童謡を作曲した。

名曲 「浜千鳥」

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれ出る
濡れた翼の 銀の色

夜鳴く鳥の 悲しさは
親を尋ねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく
銀の翼の  浜千鳥   (鹿島鳴秋作詞)
 この「浜千鳥」を作曲したのが、弘田龍太郎である。哀愁を帯びた優美な名曲は、ホ長調4分の3拍子で、<余り速くなく>との龍太郎の指示がある。ほかにも「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」「春よ来い」「お山のおサル」など、今も多くの人々に愛唱されている。島崎藤村の詩“子諸なる古城のほとり・・・”の「千曲川旅情の歌」、北原白秋の詩“雨がふります 雨がふる”に曲を付した「雨」、また“伊勢大廟のあるところ・・・”の津中学校校歌も龍太郎の作曲である。

まちづくりの “こころ” として

 昭和3年、龍太郎はドイツに留学、帰国後、東京音楽学校の教授に推薦されて就任するが、2ヶ月で教授職を辞任、作曲活動に専念した。晩年は「ゆかり文化幼稚園」の園長になるなど幼児教育にも熱心に携わり、日本大学芸術学部教授、名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝泉短期大学音楽主任などを歴任、昭和27年(1952年)60歳で逝去した。
弘田龍太郎の功績は、「西浦の神」などのオペラ作品、仏教音楽「仏陀三部作」、舞台の劇音楽、舞踊曲などにも残されているが、なんと言っても千数百曲にのぼる童謡にある。そのなかでも津に暮らす我々が傾聴すべきは、「浜千鳥」の曲が、青春の思い出に残る遠浅の白砂海岸・津市の阿漕が浦を想起して創作されたものであり、「叱られて」の曲は、津市の旧裁判所の裏通りを想起してつくられたものであることを、龍太郎の長女・藤田妙子さんから伝聞されていることである。いわば、当時の津のまちが、弘田龍太郎を介してこのような名曲を生んだのである。今日、津市に暮らす我々は、これら弘田龍太郎の曲の世界を透して、津のまちづくりの指針を学ぶことができる。
“どこか哀愁を漂わせた優美なまち”こそ、津市が似合うまちではないだろうか。