200211月号


   

L近藤津市長出席
津市青少年健全育成基金へ目録贈呈

「会いたかったです!」

 10月24日(木)午後6時から津平安閣において、津西クラブのホストのもと、津、津中央、津西、3クラブ合同例会が開催されました。西クラブの滝澤Lのユーモアたっぷりの司会進行で始まり、ギターアンサンブルの伴奏付きで、「ライオンズの歌」を130名の出席者全員で斉唱しました。テープではなく生のギター伴奏付きで歌うのは大変すばらしく感動的でした。

続いて、アクティビティーの贈呈式が行われ、今回は津西LCの山本会長より近藤津市長へ「津市青少年健全育成基金」へ目録が贈呈され、近藤市長より謝辞がありました。その後ブラザークラブ会長挨拶、幹事報告等が続き、当クラブ第一副会長赤塚Lのライオンズロアー、閉会ゴングで例会を型通り終了しました。
休憩後行われた懇親会では、津ギターアンサンブルの皆さんのすばらしい演奏をたっぷり楽しむことが出来ました。全日本ギターコンクールでプレア賞を受賞した実力派で、ヴィヴァルディーの四季に始まり、ハワイアン有り、童謡有り、フラメンコ有りと、ほぼギターだけで、ずいぶんたくさんの種類の演奏が出来るものだと感心させられました。

また、伊藤前会長の「大きな古時計」の熱唱もあり、2時間があっという間に過ぎ、「また会う日まで」を全員で合唱し閉会。楽しいひとときでした。

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 11月8日の例会で伊藤先生から「中部国際空港の基礎知識と津にとっての中部国際空港」について講演いただきました。その中で、@成田、関空とならぶ日本三番目の国際空港であること、A国が2048億円、地方自治体と民間が512億円ずつを出資している民間負担率の高い空港であること、B北側が国内線、南側が国際線で21の搭乗口を備えていること、C2005年の日本では国内線1億420万人、国際線6440万人の旅客が予想されること、D開港後は貨物も16%から33%への延びが期待できること、E中部9県で、カナダ、スペイン、韓国などの国よりも大きく、イタリア一国に匹敵する経済力があること、F津からの海上アクセスは150人乗り時速56kmの船を予定、代金は大人1920円、G所要時間は船なら1時間に1本30便で40分、車(6500円)や鉄道(3500円)なら90分などと、スライドを使って端的な説明がありました。
 最近、国の方針が成田や関空の改善、羽田の国際空港化に力を入れ始めたことや、名古屋圏には国際的な実績がないため中部国際空港の安定的な活用には不安も増しているし、先生の研究室のアンケートでも、55%が歓迎し期待している一方、45%は無駄なことという認識なのだそうです。
 津は広くは名古屋圏。津LCメンバーの役割も大きいと改めて自覚させられた意義深い講演でした。

上・中部国際空港島、下・津のアクセス港

  

 10月22日、津中央LCのチャリティゴルフ(青山CC)において41・43で回ったL岸江が、その場では23位でしたが津クラブのハンデで計算し、ネット72と津LCゴルフ例会10月度の優勝を勝ち取りました。
 なお、11月度のゴルフ例会は9日に三重中央CCで開催されました。そのコンペにおいても出だし3ホールで5オーバーと苦戦のL岸江、残り6ホールを3バーディー1ボギーの39で回り、優勝を確実視されましたが、後半乱れ、L稲畑に優勝をさらわれました。当日のベスグロは当然のようにL村山が持っていきました。(L岸江・記)


■連載■

忠盛塚

清盛の父=忠盛の塚

 県道163号線を片田志袋から西に折れ、浄水場の方へ300mほど進むと北側の道沿いに緑地がある。そこが平忠盛の生誕地と伝えられる忠盛塚である。平忠盛(1096〜1153)は、平清盛の父にあたる。長谷山、経が峰を背に永年守り継がれてきた忠盛塚は、現在ではおよそ1500Fの敷地で、その中に産湯の池、胞衣塚、3mほど土盛りされた塚の本体、それにわが津LCが1975年に寄贈した小庭園が添えられている。
平忠盛は、嘉保三年、津市産品の平家館に生まれた。武士の身分で初めて太政大臣(今なら総理大臣)となったのは平清盛であるが、それに先立ち、武士で初めて殿上人となったのは忠盛である。つまり、天皇と同じ床上に座することができた最初の武士である。  

実績なくして出世なし  

 平忠盛は、身分や身体の差別に抗した人でもあり、出世の人でもあった。彼は単なる成功者ではない。彼の生き方は既成の制度に「反」したのではなく、むしろ「抗」したものである。既成の価値や制度への「抗」なくして真の出世はない。忠盛の出世の背景には、白河上皇の寵遇があったと言われている。しかし、そうなったのは忠盛が実績をあげたがゆえのことである。都に昇った忠盛は、播磨、伊勢、備前の守を歴任して実績を積み、検非違使・左衛門の尉となった。その後、延暦寺衆徒の強訴を退け、山陽・南海両道の海賊を追捕した。鳥羽上皇のとき、勅願による得長寿院を造進している。そしてその後、但馬の守にもなり、昇殿を許されることになる。忠盛36歳のときであった。また中国・宋との貿易にも関係していたと伝えられている。
 

「平家物語」から「殿上闇討」の段  

上皇から寵遇され、武士の身でありながら殿上人となった平忠盛に、貴族たちのねたみはつのった。嫉妬は女性だけのものではない。栄達や成功にからむ男の嫉妬もすさまじい。
 「平家物語」には、忠盛をおとしめようとする企てを、見事に切り抜けた忠盛の記録がある。
 「雲の上人(=貴族たち)これをそねみ、同じき年の12月23日、五節豊明の節会の夜、忠盛を闇討ちにせんとぞ擬せられる」。このとき忠盛は、自分は文官ではない、「武勇の家に生まれて、今、不慮の恥に合わん事、家のため身のため心憂かるべし。せんずるところ、身を全うして君に仕うという本文あり」と、銀箔を被せて真剣に擬した木刀を用意し、それを薄明かりのなかで抜きはなって、貴族たちのど肝を抜いたのである。 

伊勢平氏の系譜 

津市は平氏本家が発祥した地と言っても過言ではない。忠盛は、妬む貴族たちから『伊勢の平氏はすがめなりけり』と揶揄されている。(当時、伊勢産の瓶子=壷は酢の入れ物によく使われていたので、忠盛の片目が細い眇めだったことと掛けられている)
津や津の周辺の地が平氏ゆかりの地であることはもっと評価されても良い。関東源氏にいささか粗暴な男気はあるとしても、優しさやみやびは平氏のものである。「無常」を体現した平氏は、「真実」を身をもって教えてくれているのである。
 ここで伊勢平氏について詳述する余裕はないが、忠盛の父正盛も伊勢の国司であった。そして忠盛の長男が清盛、清盛の長男が重盛、重盛の長男が維盛(これもり)。この忠盛→清盛直系である平維盛の墓は、芸濃町落合の成覚寺にある。長谷山・経が峰の東の平野で興った伊勢平氏は、源平合戦で敗れたあと、父祖の地に舞い戻り、今度は長谷山・経が峰の西の谷あいで、ひっそりと余生を送ったのであろう。平氏の末裔は、この地に多い。