200212月号


   

 恒例の年末家族会が12月13日(金)津都ホテルにて開催され、L近藤津市長ご夫妻も出席し、総勢73名で大いに盛り上がりました。
 L赤塚実行委員長の絶妙なオトボケ挨拶に続いて、吉本お笑いショーが開幕。
さすが吉本タレントと言うべきか。嶋広史・パンチみつお(+いくたまい)というあまりTVでは売れていない?タレントでしたが、嶋広史の歌有り、パンチみつおのコミカルな話術有り、TV「暴れん坊将軍」松平健の裏話有等々、会場を大いにわかせてくれました。
 特にL伊藤前会長扮するマーチャン将軍と悪者の殺陣の場面の頃には、酒の勢いも手伝ってか、激励のヤジや拍手で、大喝采。
また、子供たちへのプレゼントや、ゲーム大会と楽しい企画がいっぱいでした。
宝くじがもらえた皆さん。大口当選の暁には超ビッグドネーションを期待しております。
 色々暗い話題の多かった2002年、最後は明るく笑い飛ばし、来年こそ良い年にと念じつつ閉会。楽しい2時間半でした。実行委員会の皆様、本当にご苦労さまでした。


三役に花束贈呈


L宮田も古希?!


わしら、「こ〜とし、60のお〜じいさん」


銀婚の2組。おきまりのヤジあり!

雅之助の名演技に拍手喝采


L近藤市長もビックリ!


ヤンヤ、ヤンヤのもりあがり


まじめなのは司会者だけ?

2

 11月の第2例会は、23日の土曜日の「もみじ例会」となりました。会場となった美杉村の君が野ダム公園には、ライオン30名、ライオンレディ5名が参加。ドウダンツツジやカエデが真っ赤に紅葉する湖畔にござを敷いてのパーティ会場。L鈴木がこの日のために用意してくれた特製のバーベキューセット、料理セットも準備万端。L鈴木の会社の職員さんまで応援にかけつけてくれていました。
 会場正面の杉の木にはそれぞれ日の丸とライオンズ旗を掲載。地元でもある河村会長の挨拶に続いていつもの例会事項を滞りなく終え、赤塚副会長の「ウイサーブ」の音頭で始まったパーティでは、盛りだくさんのバーベキューの他に豚汁、うどん、おにぎりが振舞われ、L中藤からはアユ50尾、河村会長からはアマゴ48尾の差し入れもありました。何という贅沢! また河村会長の久美子夫人からは手作りのおはぎやお惣菜が提供されました。これがまたおいしかったこと!
この例会は、姉妹提携・会員交流委員会の担当で、山田委員長や豊田、中藤、原田の各Lらも接待係を務めてくれました。
午後からは雨がパラツキ始めましたが紅葉越しの蒼い水面を楽しみながら湖畔を散策、「小津安二郎映画監督の母の生家はこのダム湖に沈んだ」などの話も聞きました。皆の温かい心配りで楽しさが倍増した、自然のなかでの一日でした。


秋口の奥様連、旺盛です。


三栄食品の皆さんにもお世話になりました。

まさに秋、絢爛たる季節ですなあ〜

  

 12月4日、五クラブの懇親コンペが富士カントリー榊原温泉コースで開催されました。
 当日は最初から最後までドシャ降りの雨、グリーンにはいくつもの川ができ、いなか風には強い私でも水たまりのグリーンでは歯が立ちませんでした。でも、参加者51名、くさることなくプレーを楽しみ懇親の実をあげました。それにしても上手な人がいるもので、グロス78で回ったひとが2人もいたのにはびっくりしました。
 我がクラブ内での優勝はL遠藤のグロス84、2位にはL山田の96、3位はL河戸の99でした。(L岸江・記)


■連載■

エルムの通り=新町商店街

 数年前から津市の新町商店街の歩道にハルニレ(別称エルム)の木が植えられている。ニレは山地性の落葉高木であるが、北海道では平坦地にも自生する。新町商店街の並木にニレが選ばれたのは、津市出身の北海道開拓者、田中常次郎の縁による。
 幕末から明治にかけて北海道の開拓は盛んであった。津市近郊では、三雲町小野江出身で「北海道」の名付け親となった松浦武四郎が有名である。明治26年には津市岩田出身の板垣隊も石狩原野の開拓に着手している。田中常次郎は、安濃郡納所村(津市納所町)の農民であった。フロンティア精神に燃える常次郎は、板垣の助けも得てエゾマツ、ミズナラ、クマザサなどが茂る富良野原野の開拓を許可されたのであった。明治30年3月、常次郎は開拓希望者83戸を引率、四日市港から小樽へ、小樽到着後は炭鉱鉄道で歌志内へ、さらにその先は徒歩で目的地をめざしたとのことである。
その年の4月12日(この日は上富良野町の開拓記念日となっている)、まだ根雪の残る空知川の上流、北海道の真ん中に位置する富良野原野に、田中常次郎ら一行8名がいた。先発隊として下見に入った一行は、その夜、一本のニレの大木の下で野宿した。このニレの木は、十勝岳の噴火で枯れたが、その跡には「憩の楡」の石碑が立てられている。

不屈の開拓者精神

 原野を開墾しても3年は収穫が望めず、開拓団は鉄道工事の人夫となって食いつないだ。温暖な風土の伊勢路から、マイナス30度にも及ぶ厳寒の地に移っての暮らしはいかばかりであったろう。開拓団は、借金を戒めて現金払いを励行、禁酒を守った。そのまじめさは開拓者の模範ともなり、刻苦勉励して開拓の実をあげたとのことである。
 大正15年には十勝岳の大噴火があり、押し寄せた火山灰で開拓地は壊滅的な打撃を受け、あたりは泥流地帯となったが、同じく津市出身でまだ30才代であった時の村長・吉田貞次郎は、開拓地を放棄しようとする人々を説得して東奔西走、智恵と汗を絞って復興に力を入れ、富良野の沃土の復活を果たしたのであった。
かつての富良野原野は今日、ジャガイモ、トウモロコシ、コメ、ラベンダーなどが育つ豊穣の地となり、人口1万3千人の上富良野の町並みとなっているが、これらは、ニレの木の一夜以来、田中常次郎たちの血のにじむ努力のうえに築かれてきたものであることを忘れてはならないであろう。

ライオンズ提携から自治体提携

 上富良野の人々にとって津市は父祖の地であり、また津市の住民にとっては、上富良野は偉大な先輩たちの開拓の地である。常次郎らが取り持つ富良野の大地と伊勢の野の交流は、まず上富良野LCと津LCの姉妹提携へと結実した。
1996年7月23日午後6時から上富良野町商工センターで行なわれた姉妹提携調印式では、当時の中川治夫津LC会長の挨拶があり、提携交渉を進めてきた両クラブ前会長のL小菅とL黄田が「締結証書」にしっかりと署名捺印した。それは、田中常次郎らが富良野入りしてから、98年目のことであった。
 翌年7月30日には、上富良野町役場で、津市と上富良野町の友好都市提携が調印された。この日の調印式には、都市提携を先導した津LCから当時の伊藤和廣会長、阿部幹事らが列席している。そして2・3mの記念碑が除幕された。
 その後、津市立安東小学校は上富良野西小学校と姉妹校提携を結び、互いの代表児童によるホームステイや作物・作品の交換、メール交換などを通じて交流、心豊かに成長していくことを目指している。校門を入って左側には、田中常次郎の功績をたたえる北海道をかたどった「頌功碑」が立っている。(L久米宏毅・記)