20031月号




 明けましておめでとうございます。
今年こそ経済不況を克服できる年でありたいと願っています。昨今の日本経済はデフレに翻弄されています。中国や韓国、東南アジア諸国の生産量の向上によって安い物が大量に国内市場に流入し、かってない供給過剰の波に飲まれております。クラブの皆さんの多くも、この構造変化に打ち勝っていく努力を重ねておられることと思います。
 NHKで新しい大河ドラマが始まりました。今年はあの剣豪宮本武蔵です。毎年1回目を観ますと、年間を通じて一貫してとおっているドラマの理念のようなものを感じ取ることができます。半兵衛という男が若い武蔵に「最期の刃を突きつけられても、必死に生きよ!」「強くなるためには手を抜くな!」と諭しているシーンがありました。ここに武蔵の今後の生きざま、今年のドラマの理念が出ているように思いました。「必死に生きよ!」「手を抜くな!」とは、私自身への教示でもあり、クラブの皆さんにも共通する課題ではないかと思います。
 昨年末には、公式戦100勝をあげ、一躍、時の人でもあった伊藤和子選手を迎えて、卓球大会を成功させることが出来ました。今年は新年早々から2名の新入会員を迎えることができ喜ばしいことです。後期の活動には、「高虎一代記」の上演という大きなイベントを予定しています。高虎のまちづくりや生きざまに学ぶところも大きいかと思います。高虎のイメージアップにつながり、大河ドラマに藤堂高虎を取り上げてもらうための一助にもなればとも思います。また、後期には家族会も計画されています。今年も“津クラブらしさ”を堅持し、ライオンズの活動に参加して「よかったなあ」と実感できるようなクラブ運営に心がけてまいりますので、旧年中と変わらずご指導、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。


県下最大の卓球大会に成長

─津ライオンズ杯卓球大会─

 第3回目を迎えた「津ライオンズクラブ杯争奪卓球大会」は去る 12月22 日、146チーム540名の参加の下、津市体育館で開催された。
 招待選手に全日本選手権で 勝を達成されたばかりの伊藤和子選手が参加。67才とは思えぬ力強い模範演技を披露していただいた。
 競技は好ゲームが続出で、最後まで接戦となった高校生対中学生との対抗戦には観客も大声援。小学生から高齢者まで参加できる卓球を通じ、世代を越えた絆が深められた、三重県下最大の卓球大会であった。

 1月10日、何年か振りで料亭「平次」に戻り、津ライオンズクラブ2003年第1回目の例会及び新年会が開催された。
 ゆったりと座れないというキャパの都合もあり、場所を見直したのが嘘のようで、この数年間の会員減少には改めて驚かされました。何とかしなくては!
 ということで年男の紹介から新年会のスタートです。


 今年は8人中5名が出席し、1人ずつ抱負を述べられましたが、なかでもL遠藤は自分と同じ未年の、しかも同じ1月に初孫の女の子が誕生しましたという二重のおめでたいスピーチに会場からは拍手が沸き上がりました。この後、L伊藤雅朗前会長の乾杯に続き津の芸妓さん総揚げの時間になりましたが、こちらも久しぶりに拝見しましたが三人程度が減っておりました。残念です。皆さん!どんと儲けてもっと乙部で遊ぶ習慣をつけましょう。(もうそんな日はこんわなあ〜)
 ということで新年会も終了。唄う○○士達と大門でカラオケ。もうええやろと言うくらい唄ったのですが、もう一軒へ二人だけで移動。声が出なくなるまで歌い続け閉店。店の娘が送ってあげるというので三人で錦水軒でラーメンを食べ、家へ着いたのが二時。弁護士さんが二時十分頃だと思います。
 大変な一日でした。


新入会員のロアーです。


久しぶりのお座敷で座は満開。

■新入会員紹介■

1月例会に於いて2名の新会員を迎えました。

L寺家光弘(じけみつひろ)
株式会社じけ洋装店/代表取締役社長/
津市東丸之内/昭和21 年生れ/
美和子夫人、ご長男・孝政君、ご次男・剛君/
SP・L河村正美


L鈴木好道(すずきよしみち)
中部商行株式会社/代表取締役社長/
津市安東町/昭和 29年生れ/
由紀子夫人、ご長女・菜央さん/
SP・L山路行雄

■連載■

産業振興・土木工事の第一人者

 津市丸の内のジャスコ跡地に近く、国道23号線を跨ぐ歩道橋の西北詰めに、実際の人身よりやや小型の彫塑が立っている。図面を手になにやら記述している男の姿である。
 西島八兵衛(1598〜1680)は、慶長元年静岡県浜松市に生まれた。幼名を之友という。17歳のとき藤堂高虎に仕え、50石を賜った。天下分け目の関が原の合戦後14年に、再び豊臣、徳川戦闘となった大阪冬の陣、夏の陣では、高虎の側近として出陣、戦場で討ち取った敵の武将と討ち取った者の名を記録する「首長(くびちょう)」の係をしたと伝えられている。
 西島八兵衛の功績は、実はそんなところにはない。西島の功績は、そのすぐれた土木技術にある。主君高虎も城造りの名手と言われているが、水を巧みに制御し、かんがい用水を農地に供給する技術において西島の名を忘れてはならない。当時は農業が最も主要な産業であったことからも、農業土木工事は、基幹産業の振興そのものであった。

空海の満濃池を修復

 夏に太平洋から西に進む雲は、四国山地で上昇し四国東南域に雨を降らす。冬に日本海から東進する雲は、中国山地で上昇し山陰に雪を降らす。讃岐平野は年中水不足である。    
 かつて空海(弘法大師)はその現状を前に、自ら率先してため池の築造や改修に取り組んだ。周囲20kmに及ぶ日本一のため池・香川県の満濃池も空海の手で修築されたものである。
  水ならで 慈悲のこころをたたえたり 大師の池は ありがたきかも
 鎌倉から戦国にかけての戦乱で荒れ果てたこの空海の満濃池の修復に取り組んだのが、西島八兵衛である。当時高虎は、養女が嫁した讃岐の生駒藩の藩政代行をしていた時期でもあり、高虎が伊予や讃岐と縁が深かったことによる。
西島は、寛永2年から6年の歳月をかけて修築工事を指揮し、33郡44か村の田を潤すことに成功した。現地香川県では、西島八兵衛の名は、土木工事の名人として今も語り継がれており、わが津市よりも有名である。満濃池の隣は「国営讃岐まんのう公園」となり、人々の憩の場ともなっている。

今に活きる「雲出井」の水路  

 帰藩した西島は、川が間近を流れているにもかかわらず川底が低いため、雲出川周辺の村々が、しばしが干害に見舞われることを憂い、灌漑用水の大工事に取りかかった。雲出川中流の善応寺山の南岸(久居市戸木)から取水された水は、雲出用水路を東に流れ、久居市との境界近くの高茶屋小森で三つの水路に分かれて流れる。この分水地点を雲出井(くもずゆ)といい、津市の指定史跡である。雲出井から北進する流れは、高茶屋の地を潤し天神川に合流して、さらに相川から伊勢湾へと開かれる。中央の水路は、雲出島貫、本郷を流れて月見川、川関川となって相川河口で伊勢湾に出る。南に分割された水路は、雲出島貫、永常を通って伊倉津の田を育てて伊勢湾にそそぐ。この血のにじむ大工事は、西島八兵衛51歳のときに完成、一万石近くの増収となった。かつては塩田でもあり、塩害に悩まされた水田は、稲穂の垂れる美田へと変わったのである。夏の夜は蛍が飛び、稚アユの群れが水路を遡上する雲出地域の水の豊かさは、西島のお陰なのである。雲出井の横には、西島の功績に感謝して創られた水分(みくまり)神社がある。
 他にも西島は、京都二条城の修理、日本三大名園のひとつ高松市の栗林公園、伊賀の美濃波多新田の開拓など、土木技術ですぐれた功績を各地に残している。
(L久米宏毅・記)