20034月号

  

「藤堂高虎一代記」が大好評

〜出世物語に市民も感動〜

 3月15・16の両日、津リージョンプラザお城ホールで、“藤堂高虎一代記”が上演され、ともに満員の盛況でした。地元の西田久光氏が脚本を書き、「劇団津演」が演じました。
 津LCでは、郷土の英雄・高虎を広く世に知ってもらうために、この芝居を津歴史街道構想推進事業実行委員会とともに主催しました。

津クラブメンバーも熱演


左からL宮田太郎、L河村正美、L伊藤雅朗
  

劇的なフィナーレで観衆を感動させました。

近藤市長も出演のカーテンコール

 また、芝居のなかで煎餅屋の伊藤雅之助(L伊藤雅朗)、材木屋の河村正兵衛(L河村正美)、金物屋の宮田太郎兵衛(L宮田太郎)や近藤津市長が出演、芝居に花を添えました。
 実行委員長のL加藤徹夫は、「クラブメンバーや支援してくれた団体、個人、850名の観客に盛り上げていただいた。感謝している」と述べています。

あらすじ
 幼少の頃より力自慢の藤堂与吉(後の高虎)、弱冠十五で姉川の合戦に初陣を飾ったものの後は鳴かず飛ばず、このまま近江周辺にいても芽は出ないと、東国を目指したが三州吉田(愛知県豊橋市)で路銀が尽きてしまった。そこに一軒の餅屋。空腹に耐えかねて遂に無銭飲食の与吉。割腹して詫びようとするが、餅屋の主に「何のための若さか、まことの主が見つかるまで何度でも主を変えよ」と諭される。
 心機一転、与吉は再び近江に戻り湖西の磯野家に仕えた。今度は順調に行くかと思ったのも束の間、織田信長の甥が磯野家に養子入りし実権を握るや、ここも面白くないと八十石を投げ捨て、6年ぶりに故郷に戻った。
 両親、姉と共に親子四人水入らずでしばし穏やかな一時を過ごす与吉。そこへ旧友・大木長衛門が身なりの良い侍を連れて現れる。その正体は、一本立ちの大名として湖北長浜に城下町を築いたばかりの羽柴秀吉の弟・羽柴秀長。大木が勧める人物を自分の目で確かめに来たのである。身分を隠して与吉と相撲を取ったり、天下を語り、あるいは郷土料理の鮒鮨を食べ、気に入った秀長は自身の直属の家来として三百石で召し抱える。
 秀長により漸く一人前の武士として認められ、名も高虎と改めて「これこそ長年さがし求めた我が真の主」と粉骨砕身。徐々に頭角を現し、但馬では正室お久をめとり意気軒昂。本能寺の変の後、天下を握った豊臣家にあって豊臣秀長の家老として遂に粉河一万石に出世。そこに降って湧いた徳川家康京屋敷造営の難題。悩み抜いた末に高虎は独断で公家屋敷風の図面を武家屋敷の構えに設計変更。完成後、問い詰める家康。堂々とそれに答える高虎。後の運命の予感が両雄の胸を打つ。
 時は流れて天下分け目の関ヶ原。家康の厚い信頼を得ていた高虎は東軍として西軍の知将・大谷刑部の軍と対峙する。家康、三成があらん限りの知謀と武力をぶつけ合い、銃声と硝煙と怒号と血しぶきに染まる阿鼻叫喚の関ヶ原で今は亡き父母の白日夢を見る高虎。
 東軍大勝利により江戸幕府を開いた家康は、高虎を重用して徐々に大阪包囲網を築き、その一環として伊予今治より伊勢伊賀に高虎を移封。関ヶ原の前哨戦、安濃津籠城戦の後遺症から未だ立ち直っていない津の町。高虎は参宮街道一の城下町として再興させることを津の町衆に力強く誓う。
 大阪夏の陣も終わり泰平の世となったある日、三州吉田の餅屋に高虎の姿。若き日の恩返しである。くつろぎの中で公武一和の礎となる和姫入内の大仕事を成し遂げ満足感に浸る高虎。しかし、この度の途中、目を患い、寄る年波にも勝てずやがて盲目となる。
 寛永三年(一六二六)、旧主秀長・秀保の菩提を弔うために京都大徳寺子院として再建した大光院を訪れる高虎。死を四年後に控え自らこれが最後の墓参と覚る高虎は、墓前で「果たして自分の生涯はこれで良かったのか」と自問する。そこに秀長の霊、そして長年苦労を共にした正室お久の霊が現れ、四百年後の津に高虎を誘う。


津市に津ライオンズクラブから30万円のチャリティー

  

  

   

  

YE担当例会がなぜかカラオケ大会
〜15名が熱唱〜

 2月度第2例会(2月28 日)は、YE国際関係(L長谷川信委員長)の担当で夜間例会が開催されました。
 なぜか委員長がカラオケ大会をやりたいということで、景品の提供者を募り、歌唱者を募集したところ、当初は気恥ずかしさからか手をあげる人も少なかったようですが、委員長及び委員の皆さんの努力、更には担当副会長の力添えなどもあり当日は14名の方、プラス1名(飛び入り)がそれぞれ自慢の曲を披露しました。さすがに人前で唄ったろかという人達だけのことはあり、皆さん上手いもんでした。会長のチークダンスも良かったですよ。


上富良野を思い「北の旅人」
  
カラオケ例会
熱唱譜

デュエットが目的?
 
おなじみ「ああ上野駅」
  

洋ちゃんの歌でチーク
  

久しぶり「旅姿三人男」

「ズルイ女」…?
  


次期役員が決定

 先の3月28日の指名例会及び選挙例会において、下記の通り次期役員が決定しました。

会   長
L赤塚高之
前 会 長 L河村正美
第一副会長 L村山武久
第二副会長 L阿部博之
第三副会長 L原田佳幸
幹   事 L野田洋一
副 幹 事 L繁田義久
会   計 L浅井常生
副 会 計 L長谷 茂
ライオンテーマー L宮木康光
副ライオンテーマー L伊藤雅朗
テールツイスター L鈴木周二
副テールツイスター L青木 正
会 員 理 事 L加藤 甫
一 年 理 事 L森 伸生
   〃 L山田耕清
   〃 L小寺克之
   〃 L山路行雄
   〃 L中村豊久
   〃 L平澤利之
二 年 理 事 L藤波健一
   〃 L杉田和彦
   〃 L中藤 剛
   〃 L久米宏毅
   〃 L別所晋一
   〃 L岸江広和
会員委員長 L加藤 甫
 〃 副委員長 L森 伸生
 〃 委員 L杉田和彦

■連載■


 エンマ堂の閻魔大王

 「さあ、覗いて見な」と促されて、20B四方の小窓からお堂の中を覗き込むと、暗闇の中に目を見張り、恐ろしい形相でにらみつける黒い像があった。「怖いぞ怖いぞ」「嘘をつくと舌を抜かれるぞ」「悪いことをすると地獄に落とされる」「怖いぞ怖いぞ」とまるで子どもが怖がるのを楽しむように、大人達は子どもに恐怖感を無理強いしている姿をよく見かけた。
 津市下弁財町にある天台宗阿古木山眞教寺は、ご本尊が閻魔大王であるところから、お寺であることをすっかり忘れられて、エンマ堂の名で有名である。
 眞教寺は、慶長19年(1607年)津藩二代藤堂高次公が建立したと伝えられている。 この地は、伊勢街道沿いで、ちょうど津の城下への南の入口にあたり、悪霊や疫病が津の町に入らないようにとの願いもあって、天和2年(1682年)閻魔大王坐像が据えられたと伝えられている。
 眞教寺の閻魔さんは、各地にある閻魔大王像のなかでも、群を抜いて大きい閻魔像で、約2mあり、津市の文化財に指定されている。

 勧善懲悪の教え

 「エンマ」とは、冥界を支配する死の神の名称で、インドの古代、サンスクリット語の「ヤマ」の音写だと言われる。「ヤマ」とは「罪人を縛る」の語義で、苦楽ふたつの報いを受ける、罪悪をやめる、いさかいをやめる等を意味する。眞教寺のエンマさんの向って右手前には、天秤ばかりがある。右側の皿の上には分銅代わりの山状のものが置かれ、左側には人間の小像が置かれている。そしてその天秤は、左側に傾いているのである。つまり人間の罪は山よりも重いことを示唆している。
また、「脱衣婆」と呼ばれる像がある。死者の衣服を剥ぎ、剥いだ衣服の重さで死者の罪の軽重を決めるのだという。「羅生門」で死者の衣服を剥いでいた老婆の姿をほうふつさせる。エンマさんは、善を勧め、悪を懲らしめる勧善懲悪の世俗の教えの象徴である。生きとし生ける者の罪を監視し、死者の罪を判断する裁判官のようなものである。

 え体の知れないエンマさん

 「エンマさん」の出生の秘密は、インドの古代、ウパニシャッド哲学にあるらしい。その後、仏教に育てられた。エンマさんは仏教では、餓鬼界の主、地獄界の主とも言われ、地蔵菩薩の化身とも言われる。その住むところ、その役割など諸説紛々ではあるが、おおよそ勧善懲悪の審判官であるというのは、諸説に共通している。
 エンマさんは、さらに道教の影響を受けている。そのことが、エンマさんをいっそうえ体の知れないものにしている。エンマさんは、その姿や形は道教の像に近似しており、仏像の形からはやや遠い。中国では、道教の思想と結合して、エンマさんは冥府で死者の罪業を裁く十王のひとつに数えられている。
 ともあれ「エンマさん」は今もなお、目を見張り恐ろしい形相で現代に生きるわれわれの言動を監視している。「嘘をついたら舌を抜かれる」「悪いことをしたら地獄に落ちる」という基礎的道徳の周知には、改めて「エンマさん」の力を借りなければ成らない時代なのかも知れない。
 ところで、眞教寺には、円空の十一面観音立像がある。円空の作った仏像には、ナタ一丁で削った荒々しさ、力強さがある。お盆にはお堂が開放されるので、その際、一見されるとよいだろう。(L久米宏毅・記)