2008年4

   

春うららの大阪へ
─春の家族会─
2008年4月6日(日)


 
飲んで、食べて、笑っての1日

   

  4月第1例会は春の家族会で、大阪「吉本なんばグランド花月」へ。
 総勢57名(L37名、LL16名、リトル2名、事務局2名)は2台のバスに分乗し、8時半に市役所を出発し、一路大阪へ。最近の家族会はバス1台が多かったが、今回は久々に2台。しかも後部座席はサロンカー。また、かつてないほどのL福島からの差し入れ(と言うより、大変立派な食事の提供かな。言葉では言い現せないので写真をご覧あれ)があり、行きの車内から、メートルは上がりっぱなし。新しく開通した第2名神(道路特定財源のお陰?)で日曜日にもかかわらず、渋滞もなくスムーズに現地に到着。花月のある千日前は人人人。分かれて昼食をとった後、いよいよ12時45分から本番のお笑い開演。
 出演者は「さゆみ・ひかり」「りあるキッズ」。ここまでは若手芸人で今イチでしたが、桂小枝、西川きよし、コメディーNO.1と笑いがヒートアップ。さすが一流の芸人。桂文珍、チャンバラスペシャルと腹を抱え、涙を出して、笑い。15時半に幕。3時間近くお笑いを堪能した後は、例会場の新世界「ふぐのづぼらや」にバスで移動。これぞ大阪と言える場所で、通天閣をまじかに見て食事。我がクラブには、づぼらな人間はいないのに、何故か店が「づぼらや」。会長挨拶、次期委員会構成や新入会員招請等を審議可決。懇親会では、ビンゴ大会を交え、ふぐを堪能。18時半にお開きとなり、バスは帰路へ。帰りの車中は、楽しい1日で皆さん満足顔。少々お疲れ気味でお休みされる方も。本当に楽しい1日でした。天気に感謝、なによりも、橋爪委員長はじめ、実行委員の皆様に感謝。素晴らしい企画、ありがとうございました。


00000
(左)L福島からどっさり差し入れ      (右)さっそくバスでの宴会

0000000000
(左)例会でのL小寺会長のご挨拶。   (中)全力で楽しませていただいたL橋爪実行委員長。  (右)乾杯はL山路。


00000
ふぐ料理をたっぷり。ビール、ヒレ酒、日本酒、焼酎もたっぷり。

00000
独身組

00000
(左)「食べられるかしら」って?  (右)よう食べるわ、よう飲むわ!

00000
(左)もっと会話をしなさい。食べてばっかおらんと。  (右)ボク、ふぐ食べたことないもん…?

00000
(左)いいですねえ。   (右)まあ、ええんとちゃう。

00000
(左)ほほえましいですねえ。  (右)寝ないで差し入れを造ってくれたL福島ご夫妻。


わざとらしいんとちゃう?






MERLって何?

=3月第2例会:2月22日=
L矢田をむかえて



  
 会則・付則委員会担当の3月第2例会で、地区会則委員長のL矢田太計司氏(四日市中央LC)に「MERLと家族会員の現状について」お話をいただきました。MERLのMはMembership(会員増強)、EはExtension(エクステンション)、RはRetention(会員維持)、LはLeadership(指導力育成)の4つの委員会の頭文字をとったもので、各クラブに委員会を設置し活動を強化していくことが国際協会より要請されています。また、「家族会員」を増やすことも、国際協会から要請されており、各地で取り組みが進められているとのこと。この家族会員は、会費が一般の半額であったり、例会出席は義務でなかったり、今までのLCの活動・負担とは相容れないのではという意見も多く見られます。何か、なりふりかまわず会員増強に走りすぎの感がないでもありません。そう感じるのは編者だけでしょうか?問題は多いと思いますが・・・・。皆さんはどのように思われましたか?



   

ゴルフ部会だより

4月度優勝はL橋本

 4月度、ゴルフ部会は19日(土)、鈴鹿カンツリークラブ中コースで15名の参加の下、行われた。
 天候も良く、初夏を思わせる陽気であったが、全般にスコアは低調。その中にあって、ペリア方式とはいえ、L橋本正治が久々の優勝。ながいスランプから完全に脱し、ベストグロス賞も獲得(スコアは? まあ、80台ということにしておきましょう)。2位には後半50をタタキながらもL小寺会長。本年度にも目鼻が付き気分も楽になったのでしょう。3位はL宮木康光幹事。ま、次年度、今年度、ご苦労さんということで皆さん遠慮したのかも知れません。







●─会報誌に見る津LCの歴史─●

=その3=

誌面から草創期の心意気

1960(昭和35)年〜1970(昭和45)年




 会報誌の第1号が発行されたのは、1964年12月でした。当時は今のようにPC等を使い、簡単に印刷物を配れるという時代ではないため、結成から4年経って、ようやく発行する機運が到来したと言うことだったのでしょうか。それから、1970年までに数回発行された様ですが、現存するのは、1966年と1969年の各1回分と、5周年記念誌、10周年記念誌だけです。それぞれ今読んで見ますと、その時代を感じさせるもの、我々の今の活動に対して示唆に富んだもの等々、大変興味深く、皆様にも是非お読みいただきたいと思います。以下は各誌の内容のダイジェスト。
◎ 1964年12月津ライオンズクラブ会誌No.1より
・ 写真は表紙の部分の2枚のみで、みどり学園、聖マツテヤ子供の家、国児学園、津市児童福祉会館の子らを鳥羽水族館・鳥羽湾周遊に招待した時の写真。
・ 記事は全10ページ。内容は例会の時に紹介しましたL西村会長の格調高い「会誌の発行にあたって」という記事、L金丸初代&第2代会長の雑感、その他10人のライオンが、特に統一テーマは設けず自由に随想を寄稿しておられます。
 中でも、L原田温夫の「水道の嘆き」という随想が目を引きました。内容は、水道法という法律の話、水源の汚れや水道料金値上げの話をからませ、「天然自然の水だから何に使おうとも、どれだけ使おうとも勝手だとおっしゃるでしょうが、水の尽くした功績は忘れないでほしいと水は嘆く」と締めくくっておられます。
・ 当クラブ誕生のいきさつ(L金丸の雑感より)─ 
 三重県下にLCが全くなかった1957年あるいは1958年頃、名古屋ライオンズクラブから、三重県下に一つLCを作りたいので協力して欲しいとの依頼が、金丸氏(当時百五銀行専務)にあったが、当時はLCそのものの認識が不十分であった事と、たまたま県下を襲った伊勢湾台風その他の原因で、津がぐずぐずしているうちに、桑名・四日市・伊勢と相次いでLCが誕生し、津が遅れてしまった。(残念)
◎ 1966年12月津ライオンズクラブ会誌No.2より
・この号のメインは、旧皇族の賀陽邦壽氏を例会にお招きし、講演を頂いた内容を特集として掲載。
・ 他に、前会長の御礼記事、前幹事のL原田温夫の「幹事生活の思い出」(10月10日の亀山ライオンズクラブのチャーターナイトに行くのに、バスが遅れてヤキモキした話。椋本から亀山への道路の一部が狭く、トラックとバスが対向出来ないという、今では考えられない交通事情)、ほかに随想が3編。
◎ 1969年6月津ライオン誌No.2より
No.2となっていることから、また編集後記を読むと、この頃は1年に2回発行していたものと思われます。(但しこれしか現存せず)
・ この号は、編集委員長のL森栄一の人柄か、なかなかバラエティーに富んだ記事・構成になっています。
・ 目次を見ますと「私はこう考える(三重いすゞ社長。最年長のL船谷)」「会長退任に際して(会長L山田)」「例会記録」「ACTIVITY記録」「ライオンズ常識テスト」「クリスマス家族会」「これが私の健康法(25名が一言づつ)」「随想2編」「特集わが戦争体験の記録(12名が寄稿)」「津ライオン生年表」とバラエティーに富む。
 目次以外にも、ところどころの囲み記事で、「私の自慢品」というコーナーがある。
・ それでは、「ライオンズ常識テスト」の中から難しい?問題を2つ。
1.テールツイスターからファインをとる方法は?(正解は誰かが提案し、全員の同意を得ること)
2.ライオンズカラーの色は?(正解は紫と黄色)
・ L藤波の随想から。題は『酒と私』「私の酒は余り強くない。すぐに赤くなってふうふう言う。それでも決して嫌いではない。晩酌も欠かさないし、寝床に入る前にも、ちょっと飲みたくなると、ビール1本かハイボール2杯ぐらい飲む…。」
・ 特集は「わが戦争体験の記録」特集をした理由を編集者は以下の通り記載しています。少々長いですが平和の尊さを再認識させてくれる、名文です。
「私たちは生き永らえることができた。そして今この記録を書き綴る機会を得ている。出征の日モミヂのようなかわいい手を振って送ってくれたわが子も、今はもう皆立派な社会人となってそれぞれの生活を守っている。この生活を何ものもこわすことはできない。
 私たちが自分ひとりに軍隊生活の思い出を、懐かしい郷愁として持ち続けている段にはかまわない。しかし私たちは再び道を踏み違えてはいけないし、わが子、わが孫を戦場に送ることが、大きな罪であることをしっかりと心にとどめておかなければならない。彼等をして再びこのような記録を書かなくてもよい世が永久に続くことを祈りながらこの特集を編む。 この一遍一遍が青年または中年時代を空しく真空時代で送らねばならなかった勇者たちの、雄々しくもまた、心やさしい真実の記録である。
     ─以下、次号につづく