20036月号

  

、人、運に恵まれて…

一年を終えて
〜第43代会長 L河村正美に聞く〜

 任期も残り少なくなってきましたが、ご感想を─
 NHK大河ドラマ「武蔵」5月25日放送で、沢庵和尚 ”時”は「時には惨いもの、又やさしいもの、それは時が教えてくれる」の言葉のように昨今の厳しい経済状況の中でのライオンズの会長職での活動でしたが、厳しい(会長職)に恵まれ、又その中での人(幹事はじめ執行部の皆様)に恵まれ、又、運(事業)に恵まれて、私の人生経験最高の年でした。
 ただ、唯一残念なのは退会者が増え、会員のリテンション(維持)が出来なかったことです。
 津LCの「らしさ」は発揮できたか─
 例会も委員会担当例会としましたから、執行部が口出しせず委員会に全て任せたので中身のある例会になったと思います。カラオケ例会もありましたが…!
 会員の入会についても3人の優秀な人材を、そして交代会員も立派な個性ある会員を招請できたと思います。
 事業活動も「第3回ライオンズ杯争奪卓球大会」も伊藤和子選手の全日本女子卓球100勝のお土産付でしたから出場選手には今後の励みになったと思います。
 又、「高虎一代記」もタイムリーな事業で、津市民の皆様には「高虎公」を良く知ってもらって津の誇り≠ニしてもらうというほどのものでした。
 卓球大会は今後の青少年健全育成に充分寄与できるものと信じますし、高虎一代記に将来NHK大河ドラマ誘致に多大の協力が出来たと思います。
 その意味からも、”津LCらしさ”アクティビティーのスマートさ等があり、他のクラブと違う点があったと思います。
 一年間で最もやりがいを感じたこと─
 毎月の例会、理事会での会長挨拶でした。
 もともと話の上手な方でありませんし、知恵、話題の豊富な人間でありませんので、普段NHKラジオ、テレビ、そして新聞等で話の源になるものがあれば、すぐメモを取る習慣をつけ、タイムリーな話が出きるよう、一日一日心がけていました。
 会長職として気を使った事─
 正直、津の住人でないこと、又、生活圏が美杉であることから津との時間のロス等があり、まめに「まじめに」津の事務局に足を運べないことで幹事、会計の小寺、原田、両ライオンに助けていただいたこと、感謝しています。
 津LCの皆さんに一言─
 津LCのメンバーとして入会したのですから、津LCのメンバーになりきること。そして津LCの「奉仕活動に精を出すこと」に心を決めてください。


   

   

すっきりしてて、◎(にじゅうまる)
〜334-B地区年次大会:岐阜〜

 2003年5月18日(日)、織田信長ゆかりの地、「岐阜」グランドホテルにおいて今年一年を締めくくる第49回年次大会が開催されました。
 「夢と希望への飛翔」と銘打ち、代議員総会、分科会と続き、全員が集う年次大会式典の始まりです。
 オープニングでは、吹奏楽、マーチング大会で全国大会の出場を果たした県立岐阜商業の吹奏楽部による演奏とフラッグパフォーマンスで賑々しく幕が開き、大きな拍手の中、渡辺ガバナーと夫人が入場されました。一年間のご苦労もこの一瞬で帳消しになるんだろうなと、いつも式典を見ていて思います。(未経験なので本当のところはわかりませんが…)
 その後もいつも通り進行していき、ガバナーエレクトの紹介。そして挨拶。
 次期キャビネットより来年は5月16日(日)、員弁の地で大会開催のPRがありフィナーレ。
 その後のガバナーズ懇親会も岐阜のきれいどころの踊りとレーザーショー”光と音の祭典”の二つで、早くビールを飲みたい私なんかは、すっきりしてて良かったと思いました。総じて、すっきりしていてスマートな大会であったと思います。

  

ホームページの活用を!

〜PR・会報・インターネット委員会担当例会〜

東京・名古屋から講師

 5月23日(金)、上記委員会の担当で例会が開催されました。
 L久米委員長のお世話により、キヤノン販売(株)より講師をお招きし、「仕事に活きるインターネット」というテーマでお話をいただきました。
 これからの販売方法の一つとしてホームページを活用されてはどうですかといった内容でしたが、当日4名の方が来られ、そのうち2名はわざわざ東京からお越しいただいたとのことでした。お話しいただく時間が少なかったこと、申し訳なく思っております。


会長杯はL原田佳幸

〜ゴルフ部会取り切り戦〜

新年度は7月19日(土)・鈴鹿CCから


やっぱり、会長を助けたご褒美か?

 6月14日(土)、一位の木で作られた会長杯をめざして、津LCゴルフ部会の最終戦が行われました。前半はなんとかもっていた天候も昼からは大雨になり、コンディションの悪い中、L原田佳幸が39で回り、午前中の43とのトータル82という素晴らしいスコアで優勝。6時から場所を新町の聡集苑に移し盛大に打ち上げ会を開催しました。
 新年度は、部会長にL藤波健一、幹事にL橋本を筆頭に、L稲畑、L鈴木、L原田佳幸のメンバーで7月19日(土)・鈴鹿カンツリーを皮切りに開催される。多数のご参加をお願いします。


■新入会員紹介■

 2名の新入会員を迎えます。いずれも交代会員で、くしくも慶応大学の同窓のお二人です。

  

L野呂昭彦

L高野元良

L野呂昭彦(のろ・あきひこ)/三重県・知事/昭和21年8月28日生まれ/自宅・津市観音寺町446-20/幸世夫人/慶応大学工学部卒および同大学院修了/衆議院議員4期・松阪市長を経て平成15年三重県知事
L高野元良(たかの・もとよし)/朝日生命保険相互会社・三重支社長/昭和30年1月1日生まれ/自宅・津市丸之内養正町15-6シャトーカワイ/真弓夫人・長男浩平/慶応大学法学部卒業

  

   

   

■連載■


権謀と決断の生涯
藤堂高虎は1556年、近江の国の郷士の次男として生まれた。15歳で浅井長政に仕え、姉川の合戦で初陣を飾り、織田信澄をへて羽柴秀長(秀吉の弟)に従い3千余石を与えられた。賎が岳の戦いに参戦後、秀吉から直接5千石を与えられた。秀長の死後その子秀俊に仕えたが、秀俊の死後、高野山に出家しようとしたのを秀吉に召抱えられ、伊予の国の7万石を与えられた。二度の朝鮮出兵では水軍の将として活躍。秀吉の死後、家康の指示で朝鮮からの日本軍総引き揚げの大任を果たした。
関が原の戦いでは、徳川家康の東軍に応じて岐阜城攻略に参加、伊予半国を与えられた。1608年には伊勢安濃津に転封されて22万余石を領し、津、伊賀上野、丹波亀山の築城と江戸城の大改修を手がけている。家康の大阪包囲網の一環として、高虎は近江の膳所、丹波の篠山、摂津の高槻に城づくりをしている。大坂冬の陣では6千人の軍団を率いて出陣、夏の陣では自ら負傷しながら家康の先鋒として功をたて、大和の国、山城の国の一部、下総の国香取の地を合わせて、32万3900石の大名となった。
 江戸幕府成立後、高虎は家康、秀忠、家光の3代に仕えた。外様大名としては、徳川家と最も緊密な関係であったと思われる。高虎は、晩年、もっぱら江戸で暮らしていたが次第に視力を失い、1630年75歳の生涯を閉じた。「寒松殿前伊州羽林道賢高山大僧都」が法名である。

藤堂家が残したもの
 藤堂高虎は生涯に15の城を造っている。前述のほかに四国の宇和島城、今治城も名高い。京都二条城、大坂城の大修築も手がけ、京都南禅寺の南大門も寄贈している。日光東照宮は有名だが、日光東照宮を建造するに先駆け、そのモデルになった「東照宮」を江戸上野の山に建造している。
 東京上野にある現在の上野動物園は、かつての藤堂家の下屋敷跡で、今も園内には藤堂家の墓や茶室風の「閑々亭」がある。江戸に没した高虎は上野の寛永寺山内に自ら建てた寒松院に葬られたが、2台藩主高次のとき津に改葬された。
林間に静かに佇む「閑々亭」の名は、将軍家光が、「武士も風流をたしなむほど世の中が閑になったもので、閑々亭と名づけるとよかろう」と言ったことに由来するとのこと。
 津市の四天王寺には、絹本着色の高虎(写真)と高虎夫人・久芳院の画像がある。重要文化財である。偕楽公園も藤堂家が残したもののひとつである。ここに高虎が朝鮮出兵の時に持ち帰った石に彫ったという「竜の灯篭」もある。桜と紫つつじ(コバノミツバツツジ)で知られる津公園は、鷹狩の御殿山であったが、別荘が建てられたことで御山荘とも呼ばれた。安濃川にかかる御山荘橋は、その名を今に継いでいる。
 寿町の寒松院は、藤堂家の墓所である。バイパス沿い、津消防署の南に五輪の塔が立ち並ぶ。津藤堂家初代から10代、久居分家2・3代をのぞいて16代までの26基の墓がある。墓は第2次大戦の空襲で破損したものもあるが、ほとんど原型を保っているとのことである。寒松院は戦災で消失し、今は質素に再建されているが、家康という天下人と肩を並べて泰平の世をめざした高虎の勇姿を思うと、菩提寺の現状には一抹の寂しさを感じる。それとも案外、寒松院の寂寥感は、「閑々亭」に風流を楽しみ、敗れた敵将石田三成にも情けをもって接したという高虎の心にかなっているのかもしれない。

 我等の一代記は?
 徳川綱吉の時代、1664年の大名配置を石高で見てみると、当然のことながらトップは幕府直轄、続いて外様の前田103万石、外様の島津73万石、親藩尾張の徳川62万石、親藩紀州の徳川56万石、外様の伊達56万石・・・・となって、藤堂32万石は全国12番目の大名である。親藩の水戸徳川が24万石ということからしても、藤堂の豊かさが計り知れる。
この石高順位を現在の都市の人口数順に当てはめると千葉市、堺市に匹敵し、100万人都市である。高虎が津藩主になってから約400年、江戸幕府の時代が終わって135年、高虎の城下町安濃津は、17万の人口である。“伊勢は津でもつ”とうたわれた賑わいも遠のいた。さて、どうする?
(L久米宏毅・記)