2003年6月号 | ||
職、人、運に恵まれて… 一年を終えて 任期も残り少なくなってきましたが、ご感想を─
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すっきりしてて、◎(にじゅうまる) 2003年5月18日(日)、織田信長ゆかりの地、「岐阜」グランドホテルにおいて今年一年を締めくくる第49回年次大会が開催されました。
ホームページの活用を! 〜PR・会報・インターネット委員会担当例会〜 東京・名古屋から講師
5月23日(金)、上記委員会の担当で例会が開催されました。
会長杯はL原田佳幸 〜ゴルフ部会取り切り戦〜 新年度は7月19日(土)・鈴鹿CCから
6月14日(土)、一位の木で作られた会長杯をめざして、津LCゴルフ部会の最終戦が行われました。前半はなんとかもっていた天候も昼からは大雨になり、コンディションの悪い中、L原田佳幸が39で回り、午前中の43とのトータル82という素晴らしいスコアで優勝。6時から場所を新町の聡集苑に移し盛大に打ち上げ会を開催しました。 ■新入会員紹介■ 2名の新入会員を迎えます。いずれも交代会員で、くしくも慶応大学の同窓のお二人です。
L野呂昭彦(のろ・あきひこ)/三重県・知事/昭和21年8月28日生まれ/自宅・津市観音寺町446-20/幸世夫人/慶応大学工学部卒および同大学院修了/衆議院議員4期・松阪市長を経て平成15年三重県知事
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■連載■ |
権謀と決断の生涯
藤堂高虎は1556年、近江の国の郷士の次男として生まれた。15歳で浅井長政に仕え、姉川の合戦で初陣を飾り、織田信澄をへて羽柴秀長(秀吉の弟)に従い3千余石を与えられた。賎が岳の戦いに参戦後、秀吉から直接5千石を与えられた。秀長の死後その子秀俊に仕えたが、秀俊の死後、高野山に出家しようとしたのを秀吉に召抱えられ、伊予の国の7万石を与えられた。二度の朝鮮出兵では水軍の将として活躍。秀吉の死後、家康の指示で朝鮮からの日本軍総引き揚げの大任を果たした。
関が原の戦いでは、徳川家康の東軍に応じて岐阜城攻略に参加、伊予半国を与えられた。1608年には伊勢安濃津に転封されて22万余石を領し、津、伊賀上野、丹波亀山の築城と江戸城の大改修を手がけている。家康の大阪包囲網の一環として、高虎は近江の膳所、丹波の篠山、摂津の高槻に城づくりをしている。大坂冬の陣では6千人の軍団を率いて出陣、夏の陣では自ら負傷しながら家康の先鋒として功をたて、大和の国、山城の国の一部、下総の国香取の地を合わせて、32万3900石の大名となった。
江戸幕府成立後、高虎は家康、秀忠、家光の3代に仕えた。外様大名としては、徳川家と最も緊密な関係であったと思われる。高虎は、晩年、もっぱら江戸で暮らしていたが次第に視力を失い、1630年75歳の生涯を閉じた。「寒松殿前伊州羽林道賢高山大僧都」が法名である。
藤堂家が残したもの
藤堂高虎は生涯に15の城を造っている。前述のほかに四国の宇和島城、今治城も名高い。京都二条城、大坂城の大修築も手がけ、京都南禅寺の南大門も寄贈している。日光東照宮は有名だが、日光東照宮を建造するに先駆け、そのモデルになった「東照宮」を江戸上野の山に建造している。
東京上野にある現在の上野動物園は、かつての藤堂家の下屋敷跡で、今も園内には藤堂家の墓や茶室風の「閑々亭」がある。江戸に没した高虎は上野の寛永寺山内に自ら建てた寒松院に葬られたが、2台藩主高次のとき津に改葬された。
林間に静かに佇む「閑々亭」の名は、将軍家光が、「武士も風流をたしなむほど世の中が閑になったもので、閑々亭と名づけるとよかろう」と言ったことに由来するとのこと。
津市の四天王寺には、絹本着色の高虎(写真)と高虎夫人・久芳院の画像がある。重要文化財である。偕楽公園も藤堂家が残したもののひとつである。ここに高虎が朝鮮出兵の時に持ち帰った石に彫ったという「竜の灯篭」もある。桜と紫つつじ(コバノミツバツツジ)で知られる津公園は、鷹狩の御殿山であったが、別荘が建てられたことで御山荘とも呼ばれた。安濃川にかかる御山荘橋は、その名を今に継いでいる。
寿町の寒松院は、藤堂家の墓所である。バイパス沿い、津消防署の南に五輪の塔が立ち並ぶ。津藤堂家初代から10代、久居分家2・3代をのぞいて16代までの26基の墓がある。墓は第2次大戦の空襲で破損したものもあるが、ほとんど原型を保っているとのことである。寒松院は戦災で消失し、今は質素に再建されているが、家康という天下人と肩を並べて泰平の世をめざした高虎の勇姿を思うと、菩提寺の現状には一抹の寂しさを感じる。それとも案外、寒松院の寂寥感は、「閑々亭」に風流を楽しみ、敗れた敵将石田三成にも情けをもって接したという高虎の心にかなっているのかもしれない。
我等の一代記は?
徳川綱吉の時代、1664年の大名配置を石高で見てみると、当然のことながらトップは幕府直轄、続いて外様の前田103万石、外様の島津73万石、親藩尾張の徳川62万石、親藩紀州の徳川56万石、外様の伊達56万石・・・・となって、藤堂32万石は全国12番目の大名である。親藩の水戸徳川が24万石ということからしても、藤堂の豊かさが計り知れる。
この石高順位を現在の都市の人口数順に当てはめると千葉市、堺市に匹敵し、100万人都市である。高虎が津藩主になってから約400年、江戸幕府の時代が終わって135年、高虎の城下町安濃津は、17万の人口である。“伊勢は津でもつ”とうたわれた賑わいも遠のいた。さて、どうする?
(L久米宏毅・記)