2008年8月 |
副ガバナー、ZCを迎えて納涼例会
8月第一例会は、納涼例会&ZC公式訪問例会ということで、昨年に続き、なぎさ町の「ベイシスカソプラノ」で開催されました。 当日はL石井副地区ガバナーと次期キャビネット幹事・会計予定者、ゾーンからはL森下ZCと2名のZCA、そして各ブラザークラブより会長始め三役の方々と事務局員をお招きし、例会・懇親会と2時間半大いに盛り上がりました。例会ではL森下ZCのライオンズクエストに力をいれるとのゾーン方針のお話の後、アワード伝達があり、会員増強によるガバナー表彰(我がクラブは5名増)という、大変おめでたい例会になりました。
薬物乱用の現状と防止
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●─会報誌に見る津LCの歴史─●
草創期の津LC
〜10の視点から見た津ライオンズの歴史〜
L森 伸生
津ライオンズは昭和35年5月20日名古屋ライオンズクラブのスポンサーにより、日本における第181番目のクラブとして発足し、同年6月10日の認証を受けてチャーターメンバー23名でスタートした。残念ながら当時のチャーターメンバーは現在1名も在籍していない。
私は昭和37年7月1日に入会した。第3代目会長(L船谷重郎)の時である。従ってテーマは創生期と掲げたが創立3年目からの頃を頭に描きながら当時を振り返ってみたい。
第1は例会についてである。
例会は旧三重会館の5階ホールで行われた。旧三重会館は昭和31年に完成し、三重県最大のビルであった。専任の事務局員もなく、三交不動産の女性職員に例会の都度、準備補佐をしてもらって、運営をしていた。その後例会場は三重県社会福祉会館に変更となり、事務局もそこに1室を賃借りし、事務局員も常勤となった。そして、数年前より津都ホテルが例会場となり現在に至っている。
第2はチャーターナイト(認証状伝達式)についてである。
当時(昭和30年代後半〜昭和40年代前半)は全国はもとより三重県下でもライオンズクラブが続々と設立され、例会に出席するとテーブルの上には必ずといってよいほど各地のチャーターナイトの案内ちらしが置かれていた。三重県下のチャーターナイトには、津クラブからも全員登録が原則で、私も多くのチャーターナイトを経験した。私の強烈な思い出は、尾鷲クラブのチャーターナイトでの出来事とである。それは懇親会の最後に行われるラッキーカード抽選会で特賞が当たった事である。賞品は尾鷲クラブらしく、なんと寒ぶり5匹であった。金額に換算すれば相当高価なものである。勿論持ち帰ることも出来ず、翌日トラックで私の家へ届けていただいた。しかし、自宅で料理することも出来ず、結局津市内の各施設に1匹づつ寄贈することにした。そのニュースが朝日新聞に大きく掲載され、これぞ、ライオンズの奉仕の実践であると報じられた。また、志摩クラブでは、賞品として真珠のつかみ取りなどもあった。ライオンズ帽を着用して全員参加のチャーターナイトへの参加は、当時のライオンズ活動の楽しみの一つであり、同時にメンバー間や他クラブとの交流に役立ったように思われる。
第3は入会審査である。
当時は入会審査は厳格であったの一言に尽きる。1業種1名が大原則であり、その壁を破るなどということは、かなりの対策を講ずる必要があった。業種の細分化を図るなどである。入会招請も現在とは大きく異なり、個人の入会招請と言うよりは、津市及び近郊の有力企業をセレクトして、その企業の中から会長・社長・専務などの幹部を候補として推薦する形態が多かったように思われる。また、民間企業ばかりでなく、公的な組織や団体の長も沢山在籍していた。例えば三重県副知事(L高谷高一)、津市助役(L皆川昭)、三重県社会福祉会館(L乙部秀太郎)三重県社会福祉協議会(L山野良生)日本赤十字三重支部(L服部栄門)、鑑定士(L柴田諦純)など多士済々であった。L皆川昭は後ほど第8代目会長を務め、L高谷高一は第3副会長などを歴任している。また、三交グループだけでも、三重交通・三交不動産・三重交通商事・三交百貨店・三交建設などもメンバーであった。
第4はゴルフについてである。
当時はゴルフ場の数も少なく、ゴルフ例会は嬉野CC,または三重CC(湯ノ山)が大半であった。私は4代目会長(L吉田雷介)の時に、三重CCでの津クラブゴルフ例会で優勝し会長の盾をもらった。ゴルフを始めて日の浅いメンバーが多く、全般的にゴルフの技術も低く、スコアー100以上をたたく人がおおかった。私はグロス88(45・43)で優勝したと記憶している。乗用車の普及率も低く、軽ライトバンでゴルフ場に出かけたこともあった。
第5は年末家族会や、各種イベントについてである。
年末家族会には、子供・孫を同伴しての出席が多かった。本当の意味での家族間の交流が深まった。現在は家族会というより会員の年末忘年会のイメージが強い。一方でライオネスの同好会活動も活発であった。例えばライオネスによるフラダンス同好会などである。写真は年末家族会におけるフラダンスの演技発表の様子である。
ライオンメンバー間でもマージャン同好会、マジック同好会なども定期的に開催された。
第6はライオン帽子とライオンバッジの着用についてである。
当時は入会式の席上において、ライオン帽とライオンバッジが会長より手渡された。ライオン行事には必ずライオン帽とバッジの着用が義務付けられた。年末家族会も全員ライオン帽を着用して懇親を深めた。例会でもライオンバッジを着用していないと、ファインを徴収されることが多々あった。年次大会やチャーターナイトなどの対外行事に参加すると全員がライオン帽を着用していたが、バッジの数の多さでライオン歴の長さと役員暦の多さが判断された。勿論、入会後しばらくの間は私の帽子にはわずかの数のバッジしかついておらず、10年目くらいになって、人並みの数になったと思ったら、ライオン帽を廃止する気運が高まり、現在ではその帽子の存在さえ知らない新入会員も多いのが現状である。
第7は献血運動についてである。現在津クラブも献血運動には毎年積極的に力を注いでいる。3クラブ合同も毎年定期的に活動を展開し、アクティビティーの大きな柱の一つになっている。その根源をたどると、第16代会長(L中幸吉)の時、私が保健委員長に就任した。その時考え出したのがメンバーによる献血運動であり、メンバー全員に献血の協力を呼びかけた。津クラブとしては初めてのことであり、戸惑いもあったが、3クラブ合同献血にまで発展したその最初は、私が委員長で始めたのがきっかけであったことを知るメンバーはいないのではないか。その私が今は年齢制限で献血が出来ないことになり、まことに残念という他はない。
第8は、商工会議所会頭2名在籍についてである。
津クラブは2名の商工会議所会頭を輩出している。津クラブの誇りともいえる。L金丸吉生(津商工会議所会頭)とL山松眞一(久居商工会議所会頭)である。L金丸吉生は昭和51年5月に302E−F地区ガバナーとして津市において地区年次大会を開催した。会場は津市体育館であった。晩餐会で行われた舞楽の荘厳さは今もって心に深く刻まれている。L山松眞一(第14代目会長)は会長年度において、引田天功によるチャリティーマジックショーを旧三重県文化会館で開催した。平素より癌撲滅に情熱を燃やされていたが、収益金190万円を癌協会に寄付した。また、台北ライオンズクラブとの姉妹提携に調印したのもその年度であった。私が41代会長の時、台北クラブの40周年記念式典に参加したが、その原点はL山松眞一の時にある事を思い出し感慨深いものがあった。
第9は統一ブレザー着用についてである。現在はライオンズ公式行事の際にも各自服装は自由に委ねられている。以前はグレーの統一ブレザーをメンバー全員が仕立て、周年行事の時などには、それを着用して津市内を行進した思い出がある。他クラブでは全員統一ブレザーを着用しているところも多くあり、いつの日かその議論が再燃することがあるかもしれない。
第10はチャリティーダンスパーティーについてである。
平成元年L杉田和彦会長の時、その年度においてダンスパーティーをメイン事業として実行したい旨の構想があったようである。当時はリクレーション委員会という名の委員会が存在していた。私が社交ダンスの教師資格を有し、ダンス業界に精通しているのでダンスパーティー開催を前提として、その委員長を委嘱したとのことであった。しかし、仕事が超多忙でとてもダンスパーティーの企画・交渉・運営を私が主導的に行うことは時間的制約もあり無理と自分で決めていた。しかし、下期になって再三開催の要請があったので、立場上やらざるを得ない状況に追い込まれ、その年度内になんとか実行できるよう動くことになった。津センターパレスホールで開催したが、床が絨毯のため、ダンス使用不可ということで、名称を「ライオンズの夕べ」として実行したが、内容は全てダンスパーティーそのものであった。その実施に対する私の基本姿勢は、全てのダンス愛好者を対象にしたいという思いから、一つのダンス教室の後援を受けてやるのではなく、津市に所在する全てのダンス教室の協力を得て開催することにしたため、その調整には随分と苦労をした。それでも、結果的にダンスパーティーは大成功で、収益金20万円を腎臓バンクへ寄付することが出来た。その後、津中央クラブや津西クラブでもチャリティーダンスパーティーは開催されているが、地域の全てのダンス教室の協力を得て行われたのは、津クラブが最初であり、今後もこの実行はダンス業界の実情から考えても難しいと思われる。最初にして最後のダンスパーティーであった。